トリストラム・シャンディ

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 06/ 8 | Posted in etc,notes | 

書店で、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』を見つけた。まえから古書を探していたのだけど、復刊されていたとは知らなかった。しばらくは帰りの電車で退屈せずに済みそう。ほくほく。

「する場所」と「いる場所」

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 05/ 3 | Posted in notes,[notes]芝の家,大学地域連携,居場所/コミュニティカフェ | 

最近、「居場所のつくり方」について聞かれることが多い。「芝の家」では、それぞれの人が「いたいようにいられる」場をつくることに心を砕いている、と説明するのだが、ピンと来る人には来るし、そうでない人には皆目見当もつかない言い方のようだ。

よく世間で語られる居場所やコミュニティカフェのつくり方は、資金調達や広報といった経営にまつわる課題を手解きしてくれる。もちろんこうしたノウハウは重要で、最低限のわきまえがなければモノゴトは運ばない。しかしそれらは「どうやるか」についての技術であって、来た人が「どういるか」を見極める手だてを提供してはくれない。

居場所づくりの面白さは、ある部分で「うまくやる」ことを放棄しなければならないところにある。なぜなら、徹底して「うまくやる」ことを目指してしまうと、来る人がどう行動するかまで決めてしまいかねないからだ。「○○の人が、○○する場所」みたいな標語を掲げている場も多いが、これが行き過ぎると、来た人の行動の良し悪しを無意識に判断してしまうようになる。

人間はおもしろいもので、自分に向けられた期待に大きく影響を受ける。「○○する場所」というように、場自体が何かを期待する態度に傾くと、言葉で伝えなくても来た人の行動はそれに左右される。その場にみあった何かをしていなければ所在ないし、役に立たなければ存在を認めてもらえないような気にさえなる。どんどん場は「何かをする場所」になっていく。

それは「いる場所」ではなく「する場所」ではないか、と思う。すなわち「為場所」。Place to beではなく、Place to do 。

ロジャーズが言ったとされる有名な言葉に「The way to do is to be.」がある。これはカウンセリングの態度的技術(メタスキル)の大切さを言い当てた言葉で、いろいろ訳し方はあるだろうが、僕の心の中では「どうやってやるかってのは、つまりどうやって『存在するか』なんだよ」という和訳が定着している。他者に働きかける技術ではなく、受容し共感し、なにより自分が曇りのない気持ちで相手の前に存在すること、このこと自体が持つ大きな影響力に気づくこと。

「いる」ということは、すなわち「存在する」ということで、何かをしているかどうかという水準ではなく、まして「できるできない」というレベルでもなく、何もしていないようにみえてもどうしても現れてしまうその人の姿勢や態度や人格である。ここには実は他者に働きかける大きな力がある。「いたいようにいられる」場では、こうしたその人の存在そのものの影響力が発揮され、相互に力を生み出しあっていく。こうした部分に対する視力を高めていくことこそが、居場所を「する場所」にせず「いる場所」にしていくのだと思う。

場の態度的技術。僕もまだまだ未熟ではあるのだけれども、「居場所のつくり方」について聞かれるたび、近いうちにこうしたことをいろいろな人と一緒に探求していけるような「場」をつくりたい、と思う。そんな仲間が増えていくと、いいなあ。

2009年度が終わらない。

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 05/ 2 | Posted in etc,notes | 

年度末が〆切の仕事。いくつか終わっていません。この連休中に、どうにかしてすっきりと「新年度」を迎えたい!

「目」ディア・リテラシー入門

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 05/ 1 | Posted in notes,[notes]education,ワークショップ | 

昨年、佐藤元状先生、ヴィデオアーティストの小泉明郎さんとともにつくった公開講座「メディア・リテラシー入門」の経験をもとに、小さな本を出版しました。

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佐藤元状+坂倉杏介編
「メディア・リテラシー入門 視覚表現のためのレッスン」
慶應義塾大学出版会 →amazon.com

ヴィデオ・アート、マンガと映画、映画と小説といった切り口から映像表現の「読み方」を考えるとともに、この講座で坂倉が開発した「1時間でつくる即興映画」という世界で一番簡単な(?)映像表現ワークショップを紹介しています。マスメディアやインターネットコミュニケーションといったメディアリテラシー全般の問題を体系的に知るというより、その基本になる「視覚表現の読み方」について、わかりやすく学べる本です。ということで、「目」ディア・リテラシー入門(笑)。表紙も「目」がギョロっとしています。

アート関係者にとっては、気鋭の作家・小泉明郎さんと有加さんによる「ヴィデオ・アートの『読み方』『つくり方』」は必読です。(編集者に、そこを押したほうが売れるのでは?と提案したのですが、残念ながら却下されてしまいました)「ヴィデオ・アートって何?」という素朴な疑問にこたえてくれるような本はなかなかありませんし、明郎さんが行ったワークショップについてのご自身による解説も貴重です。

またこの延長で、今年度・日吉で開講されている講座「アカデミックスキルズⅢ、Ⅳ」では、映像表現の批評と創作をテーマに授業をつくっています。

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2回目の授業が終わったところですが、初回は「1時間でつくる即興映画」を、二回目の授業では初回のグループワークを振り返って、相互のグループ内での働きをフィードバックをしました。上の写真は、そのフィードバックにカメラとマイクを持ち込んで、「見る/見られる」関係、「撮る/撮られる」関係の面白さや怖さを味わってもらっているところです。映像制作の指導には、藤原敏史監督を迎え、本格的な技術指導も。

クラスが今後どのように育っていくのか、とても楽しみです。

どこから先は教育でないのか:芝の家・コミュニティ菜園プロジェクトの挑戦

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 04/ 3 | Posted in notes,[notes]education,[notes]芝の家,大学地域連携 | 

芝の家では「コミュニティ菜園プロジェクト」という活動がはじまっています。昨年、芝の家植物係のあやちゃんがはじめ、杉山さん(町会長)やべべの想いが合流し、いまでは近隣の10数件の「里親さん」たちがみんなで植えた鉢植えを預かり、遊びに来た子どもと路地をめぐって水やりをしてまわったり、植物の世話の合間に里親さんたちと立ち話を楽しんだりと、いまではすっかり、この界隈の日常的な風景になっています。

小さくはありますが、地域にとってもひとつの「出来事」であり、いろいろな人が自然に交流するきっかけになっています。これを大学という教育機関としての視点からみるなら、楽しいサークル活動というだけではなく、多世代異文化の人たち同士の「出会い」や「学び合い」にもつながり得る、豊かな可能性を持つ活動だと思います。

ということで大学としては、この活動を、コミュニティの学び場づくりプロジェクトという、教養研究センターの教育GPで行う実験的教育プログラムとして後押しすることにしました。植物の世話をともにするほか、地域や環境について学び合えるようなゆるやかなコミュニティができたら素敵です。こうした地域との連携による教育プログラムは、最近ではいくつかの大学ではじまっており、珍しくはありません。学内の人間関係だけではなく、幅広い年齢層、価値観を持った人たちとの協働から得られる経験が、学生の人間力やコミュニケーション力の醸成につながると期待がひろがっているのでしょう。

こうした傾向はとてもよいと思うのですが、しかし、これをとことんまで突き詰めて行くと、あるジレンマに突き当たるのではないか、と考えています。表面的なフィールドワークや地域研究ではなく、本当の意味で「学び合い」が起こるほど活動の自発性が高まるにつれて、「これが授業である理由があるのか?」、「大学が実施すべきプログラムなのか?」という疑問が持ち上がります。そうした「学びのコミュニティ」は、大学が関与しなくても発展していくでしょうし、テストやレポートを経て単位が取得できるかどうかといった評価は、当事者にとってどんどん問題にならなくなっていきます。

この問題は結構根深くて、というのも、教育とは、一般にアプトプットで確かめられねばならないと考えられているからです。外部から見てその人がどんなに「良い経験」をしているように見えたとしても、こと教育という概念からは、その人のアウトプットが「良い経験」の前後でどれくらい質的に変化したかが証明されなければなりません。やりっぱなしは教育ではないし、学習が起こったとは見なされない。そういう論理もわからないではなくて、なぜなら、良い経験と思われることがすなわち学習だと考えてしまうと、教育者の思い込みで教育効果が得られたと断定することが(本人の実感を無視して)いくらでも可能になってしまうからです。

学ぶ側の人にとっては、「学びのコミュニティ」が成熟すればするほど、大学が用意する制度(教室とか単位とか)は不要になってしまう。大学にとっては、明らかに「学びのコミュニティ」が成長しているにもかかわらず、そこで生じたはずの個々人の学習成果を確かめるすべを徐々に失ってしまう。いったいどこまでを「教育プログラム」といってよいのか、また大学と「学びのコミュニティ」はまた別の関係の仕方ができるのか。今年は、こういう問題意識から、コミュニティ菜園プロジェクトの展開を見守りたいと思っています。

コミュニティ菜園プロジェクトは、もともとが(教員の発案ではないという意味で)自然発生の活動です。そして、いまも日々自然に発展しています。「何曜日の何時間目に何番教室で」という通常の教育活動が生息する環境とはまったく違って、ある日芝の家に集まった人たちが年間のスケジュールを話し合い、ふらりと訪れた町会長(実行委員長でもある)と植える植物の相談が起こる。芝の家という環境に、あやちゃんやべべやいろいろな人が出入りし、アイデアや知識や想いを交換することを通じて、日々成長している「学びのコミュニティ」です。

これをあえて「教育プログラム」と考えてみたいと、今年の杏之介は思っているわけです。常識的には「本末転倒」なのですが、いま目の前で成長しつつある「学びのコミュニティ」の力を削ぐことなく、なおかつ「教育プログラム」として見ていくことで、「どこから先が教育ではないのか」が見えてくるのではないか。翻って、大学がコミュニティの学びに貢献できるのはどの部分なのかを探求したいと思っています。

→コミュニティ菜園プロジェクト・メンバー募集

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三田の家マスターへ復帰します。

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 03/ 29 | Posted in notes,[notes] 三田の家,[notes]芝の家 | 

3月まで1年間お休みしていましたが、4月からべべとともに三田の家マスターに復帰します。木曜日を熊倉先生とかわりばんこで(坂倉は、第2第4木曜日)担当します。(予定はこちらで確認してください→三田の家スケジュール

4月は、8日(木)と22日(木)の2日間。いずれも、夜7時ごろから集まり、ご飯を食べたりお酒を飲んだりして楽しく過ごせれば、と思っています。昼間に芝の家に来てくださっている人も、夜は三田の家にお立ち寄りください。

今年は三田で講義を持っていないので、一昨年のように授業の流れで学生さんたちが大勢集まるということはなさそうですが、近隣にお住まいのかた、在勤者のかたも来られる感じにしたいと思っています。地元のお母さんによる「スナック」や、食いしん坊企画も増やしていくつもりです。

今年もぜひご贔屓に!

エネルギーの枯渇しないコミュニティをつくる。

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 03/ 27 | Posted in notes,[notes]芝の家 | 

来週4月1日の晩、はるちゃんとの共同企画で、「[SID003] エネルギーの枯渇しないコミュニティをつくる。」という催しを芝の家で行います。→開催概要

SID(=ソーシャル・イノベーション・ダイアログ)は、はるちゃんが主催する「対話の場」。身近な「何かヘン」を、社会のさまざまなフィールドの人たちとの対話をつうじて考えることで、社会や生活やそれぞれの働き方を少しでもポジティブに変容させていく第一歩にしていこうという試みです。構成は、ゲストのストーリーテリング(語り)とワールドカフェ方式の対話の場からなり、僕は一度だけ参加させていただきましたが、とても熱気ある、しかし少しだけ日常のしがらみから離れた風通しのよい雰囲気が印象に残っています。

今回は、坂倉が「語り」というか「前座」を担当させていただくのですが、これまでSIDに参加された方から芝の家になじみの近隣の方まで、かなり多様なメンバーになりそうなので、いったいどんな場になるかとても楽しみです。(お蔭さまでというか残念ながらというか、既に定員以上のお申し込みをいただいているので、新規のお申し込みはキャンセル待ちになってしまいます。スミマセン。)

ところで、「エネルギーの枯渇しない・・・」という言葉は、もともとは自分のオリジナルではなくて、くにちゃん(=橋本久仁彦さん)からいただいたキーワードです。はるちゃんとテーマについてあれこれ相談しているなかで、ぽろっとこの言葉をもらしたところ、「ソレダ!」ということになって、決めていただきました。

その場に集まった人たちが、お互いの存在を認め合い、それを実感し合えているとき、その場にはその場に固有のエネルギーが生じてくる。こうした経験を重ねると、エネルギーは外部のどこかから充填しなくてはならないものではなくて、その場の人間の関係のなかから沸き上がってくるものだと、価値観が転倒します。エネルギーが関係性なら、組織や家族は本来、自分のエネルギーの源のはず。でも実際は、擦り減っていくことのほうが多く感じてしまうのはなんでなんだろう・・・。そんなことをめぐって、みなさんとお話しができるとよいなあ、と思っています。

子ども手当の使い途

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 03/ 19 | Posted in notes,[notes]芝の家,居場所/コミュニティカフェ | 

子ども手当が支給されても子育ての不安は解消しない、という記事を読んだ。

当然だと思う。子育てに対する不安の根源は、子育て中に誰かの手を借りたくなっても、頼れるのは金銭で買えるサービスだけという社会の構造にあるからだ。「子どもは自分でがんばって育てなければならない(=そのためにはたくさんのお金を用意しておかなければならない)」という孤独感が、その底にある。だから、少しばかりの手当をもらっても、それで安心できるわけはなくて、もしものときの「自力」を可能な限り高めておくために、多くの親は手当を貯蓄にまわすだろう。

「芝の家」にいると、子育ては親だけががんばらなくてはならないという考えが、かなり偏ったものの見方なのではないかと思えてくる。地域のいろいろな世代の人同士の複雑な関わり合いのなかで子どもたちが育っていくのを目の当たりにすると、少しくらい手がまわらなくてもそのぶん近所の人たちが面倒をみてくれるだろうし、困ったことがあれば気軽に助けてもらってよいのだという安心感が湧いてくる。世話になった分は、自分が提供できることでお返しすればよい。それがたとえばお年寄りの暮らしの助けにもつながるとしたら、むしろ積極的に近所の人にお世話になったほうがよいのではないか、とさえ感じる。「ご近所づきあい」と言えば陳腐だが、それを少しでも感じられる暮らしを実現することで、気が楽になるお父さんお母さんはかなり多いのではないだろうか。

子育ての不安は、お金の問題でもあるけれども、お互いさまの問題でもある。子育てを地域のお互いさまの問題にひらいていくほうが、家庭内で解決する問題にとどめるよりも確実に安心感は高まるだろうし、また、子育て世代以外の人たちにも、地域コミュニティにとっても、よい影響を与える可能性が高い。

子ども手当が支給されたとして、貯蓄や学費、生活費の足しにする以外の使い途はあるだろうか。たとえば年間の支給額のうち10万円を50世帯で出し合えば、たいていの地域に「芝の家」のような場所をつくることができるだろう。賃料の安い地域ならもっと少ない人数でもはじめられるだろうし、100世帯も集まればかなりの規模の取り組みができるはずだ。「芝の家」のような場所が小学校区にひとつくらいあれば確実に地域コミュニティはかわる(そして子育て観もかわる)と僕は思っているが、この不可解な政策を逆手に取って立ち上がるグループが現れたら痛快だ。もし、そんなことをはじめる方々がいらしたら、ぜひ教えてください。万難を排して応援に駆けつけたいと思います。:-)

へんてつとへんてこ

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 02/ 16 | Posted in art,notes,[notes] 三田の家,ワークショップ | 

今年は、演劇家・柏木陽さんを迎えて「演劇」づくりに励んでいる(?)「うたの住む家」の、作品(?)発表会が、今週の日曜日(2月21日)に行われます。たぶん、へんてこな感じになると思いますので、みなさん是非遊びに来てください。発表がどんな具合になるのか、開催まで1週間を切っても全くわからないようですが、少なくともウエボ監督によるワークショップ中の映像と、柏木さんによる楽しいトークは、ふんだんに味わってもらえるようです。場所は、神谷町・光明寺。素敵なお寺です。

「うたの住む家」の素晴らしいは、なんの「へんてつ」もないが、なかなか「へんてこ」なところだと思う。作品を観て「何の変哲も無い」といえば、ほとんど非難してるようなものだし、「へんてこな作品」も、あまり褒め言葉とはいえない。一般に「へんてつ」は、良い意味の特殊性で、「へんてこ」は、規格からはみだす複数性といってよいと思う。他にない特別な質や内容を持ち、かつ「何でもアリ」には流れないのがアートで、どんなプロジェクトも無意識にそれを前提している。

「うたの住む家」というプロジェクトには、そのへんがユルいというか、きちっと整いすぎない心地良さがある。もちろん、考えずにそうなっているのではなく、考えて考えて考えた結果そうなっているところがとても素敵だと思う。アートっぽくも福祉っぽくもしたくないと考えて、でもだんだんごちゃごちゃになってきて、やっぱり良い作品にしたくなってきては悩み、でも一人ひとりを活かしたくなってきてはまた悩み、すぱっと割り切れない葛藤を抱えながら、そのままずっと続いている。

第二部のシンポジウムでは、そういう「いろんな人たちとのアート」の現場で直面するアーティストのいろいろな想いについて議論することになるかもしれませんが、もしかしたらそうはならないかもしれません。でも、きっと面白い場にはなると思います。

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うたの住む家 〜作品発表とシンポジウム〜
日時:2010年2月21日(日) 開場16:30 開演17:00
会場:光明寺(東京都港区虎ノ門3-25-1)

東京メトロ日比谷線神谷町駅を降りて、地上の神谷町交差点から愛宕方面に30メートルほど進んだ右手の建物です。

内容:
Ⅰ.作品発表
 出演:うたの住む家ワークショップ参加者
 ディレクション:柏木陽(演劇家/演劇百貨店)
 ワークショップ講師:柏木陽、即興からめーる団

Ⅱ.シンポジウム「共同創作と場のあり方〜うたの住む家の事例を中心に〜」
 パネリスト:
  柏木陽(演劇家/演劇百貨店)
  吉野さつき(ワークショップコーディネーター)
  赤羽美希(音楽家)
  正木恵子(打楽器奏者)
 司会:
  坂倉杏介(慶應義塾大学特別研究講師)

料金:前売1000円、当日1500円、子ども(中学生以下)500円
ご予約、お問い合わせ:うたの住む家実行委員会

お名前、人数、連絡先を下記の電話/fax/メールのいずれかでお知らせください。
tel. 080-2055-1533 / fax. 03-6322-5999 / E-mail. utanoie(at)hotmail.co.jp

主催:即興からめーる団
共催:「うたの住む家」実行委員会

はじまりがあって、終わりがあるもの

by SAKAKURA kyosuke | 2010/ 01/ 31 | Posted in notes,[notes]education,ワークショップ,感性と感覚 | 

いつのことだったか定かではないが、とあるフォーラム(かなんか)で「ワークショップとは何か」を問われたファシリテータ(しかも、どなたか忘れた。我ながらずさんな記憶力だが、熟練の一人だったことは確か)が、「うーん、はじまりがあって、終わりがあるもの」と答えていた。

この答えには、腰を抜かすほど驚いた。「はじまりがあって、終わりがあるもの」って・・・。そんなのあたりまえでしょう、と思ったのだ。いやむしろ、はじまりと終わりのないもののほうが少ないだろう、と。そのときの僕はそう思った。

しかし、いまこの「はじまりがあって、終わりがあるもの」という答えを聞いたら、激しくうなずくのじゃないか、と思う。ワークショップなんて、はじまりと終わりさえあれば、その間の時間は、何か特別のことなんかなくても、自然にその時その場でしか起こりえない出来事で満たされていくようなものなのじゃないか。むしろ、そこに集った人たちのあいだにある、あわい気持ちたちの生き生きと動き出すような場こそがワークショップなのであって、そうしたことたちを無視して設計されるプログラムの部分だけを指してワークショップということは、やっぱりちょっと違うだろうと。

なるほど、そういうことでしたか。この数年間、僕自身も経験を重ねて、無意識に積み上がっていた言葉にならない「何か」があったのでしょう。それをビタリと言い当てる言葉も、実は自分のなかに既にあった。それらが今日、自分の身体のなかでばったりと出会った感じ。あたりまえのことほど、腑に落ちるまでに時間がかかる。

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