「する場所」と「いる場所」
最近、「居場所のつくり方」について聞かれることが多い。「芝の家」では、それぞれの人が「いたいようにいられる」場をつくることに心を砕いている、と説明するのだが、ピンと来る人には来るし、そうでない人には皆目見当もつかない言い方のようだ。
よく世間で語られる居場所やコミュニティカフェのつくり方は、資金調達や広報といった経営にまつわる課題を手解きしてくれる。もちろんこうしたノウハウは重要で、最低限のわきまえがなければモノゴトは運ばない。しかしそれらは「どうやるか」についての技術であって、来た人が「どういるか」を見極める手だてを提供してはくれない。
居場所づくりの面白さは、ある部分で「うまくやる」ことを放棄しなければならないところにある。なぜなら、徹底して「うまくやる」ことを目指してしまうと、来る人がどう行動するかまで決めてしまいかねないからだ。「○○の人が、○○する場所」みたいな標語を掲げている場も多いが、これが行き過ぎると、来た人の行動の良し悪しを無意識に判断してしまうようになる。
人間はおもしろいもので、自分に向けられた期待に大きく影響を受ける。「○○する場所」というように、場自体が何かを期待する態度に傾くと、言葉で伝えなくても来た人の行動はそれに左右される。その場にみあった何かをしていなければ所在ないし、役に立たなければ存在を認めてもらえないような気にさえなる。どんどん場は「何かをする場所」になっていく。
それは「いる場所」ではなく「する場所」ではないか、と思う。すなわち「為場所」。Place to beではなく、Place to do 。
ロジャーズが言ったとされる有名な言葉に「The way to do is to be.」がある。これはカウンセリングの態度的技術(メタスキル)の大切さを言い当てた言葉で、いろいろ訳し方はあるだろうが、僕の心の中では「どうやってやるかってのは、つまりどうやって『存在するか』なんだよ」という和訳が定着している。他者に働きかける技術ではなく、受容し共感し、なにより自分が曇りのない気持ちで相手の前に存在すること、このこと自体が持つ大きな影響力に気づくこと。
「いる」ということは、すなわち「存在する」ということで、何かをしているかどうかという水準ではなく、まして「できるできない」というレベルでもなく、何もしていないようにみえてもどうしても現れてしまうその人の姿勢や態度や人格である。ここには実は他者に働きかける大きな力がある。「いたいようにいられる」場では、こうしたその人の存在そのものの影響力が発揮され、相互に力を生み出しあっていく。こうした部分に対する視力を高めていくことこそが、居場所を「する場所」にせず「いる場所」にしていくのだと思う。
場の態度的技術。僕もまだまだ未熟ではあるのだけれども、「居場所のつくり方」について聞かれるたび、近いうちにこうしたことをいろいろな人と一緒に探求していけるような「場」をつくりたい、と思う。そんな仲間が増えていくと、いいなあ。