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文学部・芸術の現在

 | 2005〜2007年度(終了) | 
| education | group process | works |

熊倉敬聡教授と二人で担当させていただいている、慶應義塾大学文学部の講座。

タイトルは現代美術の専門科目ですが、扱う対象はより広い日常生活全般。「アートオブライフ」、「ライフリテラシー」をテーマに、校舎の渡り廊下で椿昇さんのお話を聞いたり、ファストフードや自然農法の野菜を味わったり、街歩きをしたりと、教室の枠組みにとらわれない実践を行っています。

この授業の前提に置いている基準は、「誰もが(対自分比で)最先端の知性の持ち主だ」ということ。

ある人が、何かを「わかる」瞬間を迎える。学問体系の物差しでは稚拙だったり見当はずれだったとしても、その人の思考の枝が伸びていく最先端で起こっている限り、それはかけがえのない発見だと思います。この発見を挫かない授業をつくりたい、と考えています。

「自分の生活」は、学問領域のようには輪郭が明瞭ではないし、多くの部分は意識にのぼる以前の習慣化された自明性に埋もれている。だから、「授業の対象は、自分たちの生活全般です」と言うと、たいていの学生は途方に暮れ、そんなことは大学で扱うテーマではない、と自己規制を働かせる学生も少なからずいます。

大学には学ぶべき知識があり、答えるべき問いも豊富にある。考えるべきものごとはあらかじめ用意されていて、それぞれには正解が存在する。こうしたことが自明になりすぎているからかもしれません。しかし、それぞれの問いが、どうして自分にとって問題なのか、あまり問われることはないように思います。

この授業は、問題を解くのではなく、問いをたてることに、より多くの時間をかけています。対象は、ごくあたりまえに過ごしている生活全体という、極めて曖昧で手がかりの少ない世界。このなかで自分にとって切実な問題を見つけること、そしてそれに自分が納得できる形で答えることは、それほど容易ではないと思います。

自分自身のたてた問いに答える作業は、それぞれの人の先端でしか起こりません。それは、学術的な先端ではないかもしれませんが、その人の思考や経験、知識を総動員しなくてはならないという意味で、やはり最先端の知性の働きなのだと思います。

この部分を挫かれ続けると、人は自分の感覚を信じなくなり、世界はどんどん鮮度を失うような気がします。

大学というシステムの常識が、このように作用してはいないか、絶えず自覚的でありたいと思っています。むしろ、こうした新鮮な思考を付き合わすことのできる場こそ、大学なのではないか。そんなことを考えて、授業をつくっています。