金沢にて

by SAKAKURA kyosuke | 2013/ 11/ 17 | Posted in notes,感性と感覚 | 

アートミーツケア学会@金沢美術工芸大学、無事に終わりました。ここ数年、これまでよりきめ細かい実証的な事例研究が増えているように感じます。ケアの現場にアートが必要か否かという議論の段階から、アートがあることを前提に、それがどのように働いているのか、どのようにそうした場を設計可能なのか、という実践から理論を立ち上げていくタイプの研究が、ますます増えそう。私もがんばろう!と今年もよい刺激をいただきました。そして、帰りに寄った鈴木大拙館は、とても良かった。大拙×谷口の空間は強烈な磁場。いるだけで、身も心もスッキリ。

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我と汝とのあいだに存在するアート

by SAKAKURA kyosuke | 2012/ 05/ 12 | Posted in art,etc,notes | 

 感情は<所有される>が、愛は生起する。感情は人間のうちに住む、しかし愛はそうではなく、人間がみずからの愛のうちに住むのである。これは比喩ではなくて、事実である。すなわち愛は「我」に付着して、「汝」をただ<内容>や<対象物>として所有したりはしない。愛は「我」と「汝」との「あいだ」に存在するのである。このことを識らぬ者、みずからの存在でもってこのことを識っていない者は、たとえ彼が自分の体験し、経験し、享受し、表出する感情を愛であると思いこんでいようとも、愛を識らぬのだ。愛とはひとつの宇宙的なはたらきなのである。だから、愛のなかに立ち、愛のなかにおいて観る人間にたいしては、ひとびとはみな、そのせせこましい営みとのかかわり合いから解き放たれ、善きも悪しきも、賢きも愚かも、美しきも醜きも、交わるがわる生きた現実となり、「汝」となり、解放され、歩み出てきて、かけがえのない唯一の実在として彼に向かいあうのである。(マルティン・ブーバー『我と汝』)

今日は終日、書斎で原稿書き。ブーバーの『我と汝』。「愛」を「アート」に置き換えて、読んでみる。アートは、汝を内容や対象物として所有したりはしない。アートは我と汝とのあいだに存在する。それを識らない者は、たとえ彼が自分の体験し、経験し、享受し、表出する感情をアートだと思い込んでいても、アートを識らない。アートはひとつの宇宙的なはたらきなのだ。アートのなかに立ち、アートのなかにおいて見る人間に対しては、人々は解き放たれて、善きも悪しきも、賢きも愚かも、美しきも醜きも、交わるがわる生きた現実となり、汝となり、解放され、歩み出てきて、かけがえのない唯一の実在として彼に向かいあう。

「開き直り」の逆は「閉じ壊れ」

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 11/ 17 | Posted in etc,notes | 

「開きなおり」という言葉って素敵だなと思った。問題は解決していないけれども、まずはオープンにすることで、なおりはじめる。少なくとも状況は変わりはじめる。逆の言葉があるとしたら・・・、「閉じ壊れ」? 閉じ壊れていく人間や組織なんて、なんともおそろしい。

この世では、待つことを学ばなければならない

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 09/ 26 | Posted in etc,notes | 

たとえば、流星のおちる音。
おうむが内心ほんとうにいいたかったことば。
それに、盲導犬の生まれながらのほえ声。
これらは、今のぼくにはきこえない。音がしないんじゃない、遠すぎる。要するに、距離の問題だ。ひとははじめからきこえる音でやっていくしかない。きこえるべきものは、そのときがくればちゃんと耳にとどく。
熟練のティンパニ奏者のように、ぼくは待つことを学ばなけりゃならない。それはなかなかにむずかしい。ばかといわれても、へんてこ呼ばわりされても、けっしてばちを捨てず、ステージのいちばんうしろでじっと立っていること。そのときをきき逃さぬよう、ちゃんと耳をかたむけて。
ずっと長いあいだ、ぼくのまわりには音があふれてた。
そして今もあふれてる。
でたらめなこの世の騒音は、たったひとつのリズムがきっかけで、目の覚めるような音楽となる。
(いしいしんじ『麦ふみクーツェ』、理論社、2002年、406頁)

ほめられもせず、けなされもせず。

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 08/ 6 | Posted in etc,notes | 

必要があって書き写したので、ついでに。
セルフエスティーム、「自分を大切にする」ということ。加藤さんのこの説明は、とてもしっくりくる。

正解は外側にあるという奴隷の原理

セルフエスティームとは「自分自身の価値を認め、自分が好きであり、自分を大切にできる」という、日本語になりにくい言葉なんですけども、私たちの社会はこれをむちゃくちゃに壊しているんじゃないか。特に近代教育の「正解は外側にある」という枠組みがこれを壊しているんじゃないかと思うんです。セルフエスティームを育てたりはぐくむということは、近代教育の枠の中とは違った場や空間をいかに上手にしつらえていくかです。それがないとセルフエスティームは育たない。「ほめる」ということでそれをやろうという主張もあるんですが、「ほめる」というのは「けなす」というのと同じであって、他人の評価によって自分を獲得するということなので、これでは大差ないです。もちろん他者によって自分がみえるからセルフエスティームは形成されるわけですが、その他者のみえ方というのが「ほめる」という行為によってしか見えないのでは、その他人の評価と顔色を気にする人間を作っているに過ぎないんです。これは根本的にはセルフエスティームが育つとは言えないわけで、ほめられもせず、けなされもしないのに、あるいは誉められようが、けなされようが、自分が自分であることを肯定できる状態があり得る、ということを土台におかなくてはいけないと私は感じているわけなんです。

加藤哲夫『市民の日本語 NPOの可能性とコミュニケーション』、ひつじ市民新書、2002年、44-45頁。

溜息と欠伸

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 05/ 29 | Posted in etc,notes | 

最近、大切にしていることは、溜息と欠伸。

溜息は失意や悲嘆の、欠伸は退屈や怠惰の意味があるから、人前でおおっぴらにするのは憚られるけれども、一人でいるときには、全身で味わうようにしています。

「はぁ〜〜〜〜〜。」と深い溜息をついて、がっくり肩を落とす。

「ふわぁぁぁ〜〜。」と欠伸しながら、目に涙が溜まるほど思い切り伸びをする。

この数秒の時間が、じつに気持ちよい。身体が求めていることをそのまま満喫するのだから、気持ちよくないわけがない。でも、忘れていました。最近の小さな再発見。

未完成の小さな場

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 04/ 4 | Posted in notes,居場所/コミュニティカフェ | 

久しぶりに読み直した、松山巖さんの『建築はほほえむ』から。

建築こそ未完成の場なのだ。
未完の建築はほほえみ、世界はゆれる。
世界はふるえる。
では、世界とはなにか。
あなたが、私が、誰かと、共に
未完であることに、目覚め、理解し、口を開くこと。
すきまを開き、ちょっとしたなにかが起こり、なにかを起こす、
いくつもの、すきまを埋め、
いろいろな、すきまで結ぶこと。
未完であるためのすきま、ひとりが生きる目地、継ぎ目、余裕、余白、小さき場。
(松山巖『建築はほほえむ 目地 継ぎ目、小さき場』西田書店、2004年、113頁)

私たちは昔から、未完の空間に生きていたのだと思う。未完であることに目覚め、誰かとともに口を開くことで、世界が生まれ、その世界は「すきま」で満たされている。出来事は、そのように起こり続けてきたし、これからも起こり続ける。

中止のお知らせ。

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 03/ 17 | Posted in info,notes | 

東北地方太平洋沖地震で被災したみなさま、ご家族やご友人の安否を気遣われているみなさまの、一刻も早い平穏の回復をお祈り申し上げます。

地震にともない、東京でも余震の恐れが残るほか、電力供給と交通機関の回復が遅れていることから、予定されていた以下のイベントは中止になりました。

3月17日「臨床するアート 東京セッション 第6回」
3月18日「大学地域連携の場づくり会議」@三田の家
3月20日「芝の家プロジェクト発表会 3人寄れば、地域がうごく?」
3月22日〜24日「非構成エンカウンターグループ コトブキに眠り、かどべやで語る。」

いずれの企画も、こうした状況だからこそ、集う人が「いま・ここ」を確かめ、これからの在り方に想いを馳せる場になり得ると感じていたので、断腸の想いです。しかし一方で、大学や行政の事業という側面もあり、参加者の安全性が確保できない状況での実施は困難だということも事実です。

開催の可否を検討しているあいだ、実施することに賛同してくださった方々、いち早く参加を表明してくださったみなさまの存在が、励みになりました。機会をあらためて、みなさまとご一緒できる場を、再設定したいと思っています。当面は、その分のエネルギ—を、芝の家の運営をはじめ、いまできることへ振り向けていくつもりです。

みなさんも、是非ご自身の持ち場を大切にお過ごしください。とりいそぎの、お知らせまで。

3人寄れば、地域がうごく?

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 03/ 13 | Posted in notes,[notes]芝の家,大学地域連携,居場所/コミュニティカフェ | 

お知らせばかりで恐縮ですが。
3/20に、芝の家の「発表会」を行います。芝の家スタッフおよび近所の方々ががんばって発表しますので、みなさま子どもの学芸会を見守るような気持ちで、どうぞ応援に駆けつけてください。
基調講演は、園芸療法家のグロッセ世津子さん。ディスカッションには、明学のソーシャルワーカー・平野幸子さん、青少年教育と「茶堂」研究の久田邦明さん、そして北四国町会長・杉山光敬さん。また、富山から阪井由佳子さんはじめイワズモガナのみなさんが駆けつけ、演奏を披露してくださいます。気づくと、結構豪華な発表会。地域の人もそうでない人も、お楽しみいただけると思います。

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芝の家プロジェクト発表会 3人寄れば、地域がうごく?
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芝の家もオープンから2年半がたちました。
赤ちゃんからお年寄りまで、たくさんの人で賑わう芝の家では、日々の小さな出会いのなかから、多彩な地域活動が始まっています。
どの活動も、はじまりはおよそ3人。そこから1人ずつメンバーが増え、小さな活動同士がまじりあうことでご近所に無数の「つながり」がひろがってきました。
小さくとも豊かな人間関係を紡ぎつづける芝の家の活動たちを紹介しながら、これからの地域づくりの道筋について、みなさんと話し合いたいと思います。

日時:2011年3月20日(日)13:00~18:00  開場12:45~
会場:芝コミュニティはうす(港区芝5-13-15 芝三田森ビル2F)

主催:芝の家
共催:港区芝地区総合支所、慶應義塾大学教養研究センター
協力:北四国町会、芝寿会、コミュニティカフェ全国連絡会
定員:50名
参加費:無料

この事業は、文部科学省大学教育・学生支援推進事業大学教育推進プログラム 慶應義塾大学「身体知教育を通して行う教養言語力育成」事業の一環として開催されます。

プログラムや登壇者プロフィールなど
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くいしんぼう会、大根の巻。

by SAKAKURA kyosuke | 2011/ 02/ 9 | Posted in info,notes,[notes] 三田の家 | 

明日、2月10日(木)の三田の家は、結さんをゲストマスターに招いて「くいしいんぼう会」第二弾。「大根の食べ比べ」を予定しています。1900時くらいからゆるゆると開催。どうぞお立ち寄りください。

詳細は、こちら

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