家の門番?
下の写真は、自宅の門なのですが・・・。

郵便受けの下に、アシナガバチが巣づくりに励んでいます。

がんばっている彼女には申し訳ないのですが、このままだと郵便屋さんの身に危険が迫ることが明白なので、近々よそへ移動してもらわねばならなくなりそうです。
フォーラムg、写真は・・・。

参加者、ゲスト、スタッフあわせて約90人の方々と、2泊3日の濃密なフォーラムを終えました。
ワークショップフォーラムgのサイトに、とりあえず集合写真が掲載されています。3日間の様子は、(たぶん6月に入ってから)同サイトで公開予定です。現在、永福町方面で写真の編集・アップロード作業が進んでいるはずなので、準備が整ったらこちらでもお知らせしたいと思っています。
写真といえば、本来撮影をお願いしていた写真家の横田さん、円城寺さんが相次いで参加できなくなり、3日間を通して、僕ともう一人のスタッフが撮影を担当しました。
そんなわけで、ファインダ越しにフォーラムの進行にずっと伴走していたわけですが、撮影者の心理は、場の抑揚にもろに影響されます。しかも、僕は準備側の人間でもあるので、参加者の気持ちや行動に人ごとではいられないところがあって、参加者が楽しそうにしていたり、あるいはとまどっていたり、また熱く議論していたりというエネルギーの満ち干きの波を、全身でかぶってしまう。場に寄り添って、丁寧に撮影をしようと思えば思うほど、精神的身体的に、こたえる仕事でした。これからアップされるだろうフォトレポートが、参加者や来られなかった人に、喜んでもらえると嬉しいのだけど。
また、なかには「シャッターの音が気になる」という意見もあって、これには非常に動揺しました。逆に「カメラマンも一緒に場にいた感じがあったから、気にはならなかった」と言ってくれる人もいたのですが、これまでかなり多くのワークショップ写真を撮ってきたにもかかわらず、このときばかりは、写真を撮るってことがちっとも客観的ではなく、場に強い影響を与えてしまうということを改めて突きつけられ、かなり戸惑いもしました。
東京へ戻ってからもしばらく割り切れず、もやもやと考えていたのですが、気にしない人もいる反面、シャッターのバシャッと切れる音を、身を切られるような想いで聴く人もいる。その痛みのようなものを、少しずつ想像できるようになってきたように感じています。フォーラム中、僕は良い写真を残したい、という誠実な想いで撮影はしていたけれども、身を切るほどの覚悟を持ってシャッターを切っていたわけではない。
もともと、写真は、残酷です。この点については、スキルや配慮とは別次元で、本質的にどうしようもないなあ、と思う。でも、デジカメやケータイで気軽に写真が撮れるようになってから、アクチュアルな時間を写真に切り取ることの切実さや怖さを、うっかり忘れていたようにも思います。
その後も、毎日のように写真を撮っています。芝の家で遊ぶ子どもたちの様子、授業でのワークショップなどを。相変わらず良い写真を撮りたい、写真を見た人に喜んでもらいたい、という欲望もありますが、それとは別の次元で、シャッターを切ることの冷徹さ、乱暴さを、知っていたい、と思うようになりました。諦観でも開き直りでもなく、人の気持ちの流れる時間を切り取らざるをえないことに対する透徹した真摯さとともに、シャッターを切っていきたいと思っています。
正しい休日
日曜日、久しぶりのお休み。妻が、山へ出かけているので、ひとりで過ごす休日。朝、気ままに散歩に出る。源氏山を越え、銭洗弁天を抜けて鎌倉まで歩く。佐助のもやい工藝をのぞき、由比ケ浜通りの公文堂まで足を伸ばすが、残念ながら開店前。島森書店で『鎌倉ものがたり』を、アレイでくるみパンを買う。たらば書房で小説と雑誌を、紀伊国屋でワインと肉を仕入れ、観光客と入れ替わるように帰宅。午後はずっと、座敷の縁側でひなたぼっこをしながら小説を読む。風呂にゆるゆるとつかり、昼寝。陽が落ちたころ、パスタを茹でて肉を焼き、ワインを開け、マンガを読みながら夕食。久しぶりに、「正しい休日」を満喫。
グリグリの本ができました。
参加者のみなさんや、編集・デザイン・印刷スタッフの方々と一緒に、3ヶ月以上の時間をかけてつくってきた「グリグリの本 」が完成しました。ノートのような、アルバムのような、素敵な一冊です。
いろいろな偶然や人脈、かかわるそれぞれの人の想いやセンスやスキルが折り重なってできた本なので、存在感自体に「グリグリっぽさ」がにじみ出ているような気がします。書かれている内容のほかにも、どうやってできてきたのかを想像しながらページを繰っていただけたら嬉しいです。


芸術家と子どもたちで、一部500円にてお譲りできるようになるそうですので、ぜひお問い合わせください。三田の家、芝の家でも、閲覧可能です。
野外ミーティングの季節


今週は、本当に気持ちのよい天気が続きました。部屋にこもるのがもったいないので、打ち合わせも、自然に外へ。
遠隔的触覚としての聴覚
HEREing Lossのワークショップについての論文を書くために『世界の調律』を読み直していたら、素敵な文章に出会いました。
触覚は五感のうちで最も個人的な感覚である。聞くことと触れることは可聴音の周波数の低い部分が肌で感じることのできる振動に移行するところーーおよそ20ヘルツーーで重なる。聞くことは離れたものに触るひとつの方法である。人々が集まり何か特別なものを一緒に聞くといつでも、聴覚の中に潜むそうしたある種の触覚的な感覚がそのグループ全体に親密な一体感をもたらすのである。
(マリー・R・シェーファー『世界の調律—サウンドスケープとはなにか』、鳥越けい子ほか訳、平凡社、1986年、33頁)
以前に読んだときに、ここに引っかからなかった理由は、まだ自分にこうした「ともに聴く」という経験が乏しかったからだろう。遠くのものに触れる感覚器官としての聴覚。そして、ともに耳を傾けるひとたちのあいだに訪れる共感。聴くことを通じて、出来事にともに立ち会い、互いに触れ合うこと。
アートミーツケア、創刊。
アートミーツケア学会誌が、発刊しました。坂倉は、「音楽するコミュニティと『現れの空間』ーーあるエイブルアートの試み『うたの住む家』を事例に」という論文を寄せています。論文の出来はさておき、とても立派な本に仕上がって、嬉しい驚き。事務局のみなさまのご尽力に、感謝です。
「うたの住む家」の「へんてこな良さ」を、なんとか言葉で他の人にも伝えたいという使命感から書きはじめたテクストだったのですが、非常に苦労しました。まだまだ詰めが甘いなあと思う点はあるのですが、「うたの住む家」の、直接的には芸術的な強度を求めるでもなく、障害の恢復を目指すでもなく、ただ「いろいろな人が集まって一緒に『うた』をつくり『うた』うこと」にどんな意味があったのか、ほんの少し迫れたのではないかと思います。
ぜひ、手にとっていただけましたら、幸いです。

アートミーツケア Vol.1/2008 特集=臨床するアート
医療現場やコミュニティにおけるアートの実践、障害や老い・病とアートの関わり、テクノロジーの進歩とヘルスケア──アートが「芸術」の意味をこえ、ケアという行為と交差するとき、生きるための技法としてどのような可能性がひらかれるのか。想像力による生の回復と、人間的感性を社会システムのなかに取り戻していくための新しい可能性を探る学会=アートミーツケア学会による第一報告集。
【装丁】B5版並製 160頁
【定価】1,890円(1,800円+税)
【お申し込み方法】本誌は全国の書店のほか、生活書院やアートミーツケア学会からもご購入いただけます。
アートミーツケア学会
たんぽぽBOOK STOREにて取り扱い生活書院
E-mail: sales@seikatsushoin.com
Tel: 03-3226-1203
Fax:03-3226-1204
http://www.seikatsushoin.com
公開講座:記録・記憶と構想の現場

イギリス映画の研究をされている佐藤先生と二人で、5月から6月にかけての土曜日・全4回の公開講座を担当します。映像や漫画やビデオアートを題材に、いろいろな角度からビジュアル表現の見方を考えます。初回は、アーティストの小泉明郎さんを迎え、映像表現を体験するワークショップを予定。
申し込みは、4月20日まで。基本的に一般の方が対象ですが、在学生も受講できます。
詳細は、日吉キャンパス公開講座をご覧ください。
不快感とサバイバル能力
遊びは善ではなく快である。
先日「芝の家」に来てくださった、プレーパークせたがやの天野秀昭さんが語った言葉が、心に残っています。遊びは、生命の生き生きとした発露(=快)であって、善悪の判断には収まらない。ときに大人が子どもの遊びに眉をひそめるのは、社会が一方的に善悪の判断を行っているだけで、遊びの本質は、ときにそこから大きくはみだすものだ。
遊びの「逆」の感情である不快は、死に関わる。人間が、というか生物が、リアルタイムで感じている不快感を感知することは、個体が死なないようにするためにきわめて重要だ。痛い、不味い、臭い、だるい、厭な気配がする、といった不快感を敏感に察知できないと、野生ではすぐに命を失うだろう。現代の日常生活ではそこまで極端でなくても、お腹を壊したり、骨を折ったり、過労で倒れたりする危険性は増す。身体ばかりでなく、精神面でもおそらく同じだ。
快の感情に鋭敏になることは、論理的に考えれば、不快感をも敏感に察知できるようになるということだ。それは人間の基本的な生命維持の能力を高めることだといってよい。
にもかかわらず、現代の社会生活を営んでいると、身体の不調やストレスを感じ表明することは、「根性がない」、「責任感がない」、「能力がない」と判断されがちだ。ひどい場合は、楽しそうに仕事をしていると「遊んでんのか!」と怒られたりする。つまり、集団的に互いの快(=「生きる」こと)を制限し、不快感(=死を察知する能力)をキャンセルするように迫られているわけだから、心身ともにバランスを崩す人が増えても何ら不思議はない。
大人は、善悪の世界に生きているなあ、と思う。快や不快を見て見ぬ振りをする働き方を集団自殺と言ったら過激に過ぎる言い方だけれども、組織がある種の「生命」を持つ有機体だとするなら、このことは、もっと重く捉えてよいだろう。
4月から
この4月から、所属が変わりました。新しい職場は、教養研究センターというところです。
センターの所在地は日吉ですが、僕の主な業務は引き続き「芝の家」ですので、基本的にこれまでと変わらず三田をベースに活動を続けます。授業は、アカデミックスキルズと総合教育セミナーの2コマ、いずれも日吉の1〜2年生向けのゼミ形式の授業を担当します。そのほか、いくつか学会を準備したり、社会連携や実験的な教育プログラムづくりにも関わらせていただけそうですし、またHEREing Lossや箱庭の研究など、DMCで手がけた研究も継続して深めていきたいと思っています。
なんとなく、自分が関わってきたいろいろな活動やネットワークがつながっていきそうな予感がして、わくわくしています。今年度も、どうぞよろしくお願いいたします。






