不快感とサバイバル能力

by SAKAKURA kyosuke | 2009/ 04/ 3 | Posted in etc,notes | 

遊びは善ではなく快である。

先日「芝の家」に来てくださった、プレーパークせたがやの天野秀昭さんが語った言葉が、心に残っています。遊びは、生命の生き生きとした発露(=快)であって、善悪の判断には収まらない。ときに大人が子どもの遊びに眉をひそめるのは、社会が一方的に善悪の判断を行っているだけで、遊びの本質は、ときにそこから大きくはみだすものだ。

遊びの「逆」の感情である不快は、死に関わる。人間が、というか生物が、リアルタイムで感じている不快感を感知することは、個体が死なないようにするためにきわめて重要だ。痛い、不味い、臭い、だるい、厭な気配がする、といった不快感を敏感に察知できないと、野生ではすぐに命を失うだろう。現代の日常生活ではそこまで極端でなくても、お腹を壊したり、骨を折ったり、過労で倒れたりする危険性は増す。身体ばかりでなく、精神面でもおそらく同じだ。

快の感情に鋭敏になることは、論理的に考えれば、不快感をも敏感に察知できるようになるということだ。それは人間の基本的な生命維持の能力を高めることだといってよい。

にもかかわらず、現代の社会生活を営んでいると、身体の不調やストレスを感じ表明することは、「根性がない」、「責任感がない」、「能力がない」と判断されがちだ。ひどい場合は、楽しそうに仕事をしていると「遊んでんのか!」と怒られたりする。つまり、集団的に互いの快(=「生きる」こと)を制限し、不快感(=死を察知する能力)をキャンセルするように迫られているわけだから、心身ともにバランスを崩す人が増えても何ら不思議はない。

大人は、善悪の世界に生きているなあ、と思う。快や不快を見て見ぬ振りをする働き方を集団自殺と言ったら過激に過ぎる言い方だけれども、組織がある種の「生命」を持つ有機体だとするなら、このことは、もっと重く捉えてよいだろう。