ほへっとした秋のいろは通り

by SAKAKURA kyosuke | 2009/ 10/ 18 | Posted in notes,[notes]芝の家 | 

「芝の家」の一周年を記念して、「いろはにほへっと芝まつり」を開催しました。

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「いろはにほへっと芝まつり」の様子は、義塾のサイトにも様子が掲載されています。よかったら覗いてみてください。

子どもから大人まで、準備にあたった方々だけで約60名という大所帯。近隣の軒先や店舗もお借りして、束の間「いろは通り」が賑わいのある通りになりました。

都市計画において道路の機能は、通行、アクセス、空地の3つに分けられるのだが、通りを介して人々が集う光景を見ていると、それが人々の交流空間としても重要な役割を果たしている、ということを実感する。もちろん道路占有などできないから、通りに面した軒先や店舗に点々と「お店」を出し、通りは直接的には、それらの小さな会場を結ぶ通路としての役目を果たしているに過ぎない。けれども、人々が通りを行き交うことではじめて具現化する、独特のオープンな公共性があるのではないだろうか。この公共性がまちを満たしているかいないかで、その地域コミュニティの質はずいぶんと左右されるはずだ。だとしたら、通りのつくり方・使い方は、地域社会に無視できない要素だといえる。

という視点から考えれば、軒先を掃除すること、鉢植えを設えること、私有地を提供して縁台を置くこと、といった小さなアクションについても、それらが何を表現しているかという軸から、もっと評価されてよいのだろう。通りにおけるコミュニケーションコードを変えるなどといえば漠然として手に負えないように感じるが、それは通りの使用者たちによる小さな作法の積み重ねで成り立っているに違いない。通りの使用は制度上は警察の管轄であるし、一般的な常識ではどうしても道路が最優先させるべきは自動車などの通過交通だと思われがちだ。それは事実ではあるけれども、一方では、誰のための通りなのか、通りによって保たれる公共性もあるのではないか、といったことを考えていかなければいけないな、と思う。そして、こうした通りに集う機会を、年一回でも続けていくことで、何かが変わっていくという手応えも感じる。そんなことを考えた秋の一日でした。