坂倉杏之介という人物

by SAKAKURA kyosuke | 2009/ 08/ 23 | Posted in etc,notes,[notes]芝の家 | 

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本名の「杏介」のかわりに「杏之介」という名前を使いはじめて、数ヶ月が経ちました。改名(というほどでもないが)の理由はいろいろあって、たとえば、姓名判断が大凶なこと(を、妻が気にしている)とか、芝の家で小学生に呼ばれる名前が「坂倉さん」や「杏介」では、ちょっとカタいかな、と思ったことなど。ほかにも、「杏之介」という字づらが、インパクトがあってなかなかよいなと思ったという理由もある。

ものは試しと使い始めてみると、思いのほか順調に使われる範囲が広がって行き、半分とはいわないまでも、かなりの程度、「杏之介」という人物が浸透してきている。郵便も「杏之介」で届くし、あまり努力せずとも自然に伝播していくということは、環境との相性も悪くないのだろう。

ところで、おもしろいことに「杏之介」という人は、「杏介」とは全然ちがう人格を持っている。どちらも自分のことなので、自分で驚くのもどうかと思うけれども、明らかにこの二人は別人だ。それはもう、自分でも、びっくりするくらいに。

「杏之介」は、「杏介」に比べると、かなりいいかげんで楽天家だ。「杏介」は、もっと緻密で、ものごとを巧くやろうとがんぱる。きっちりやらないと気が済まないぶん、完璧にできないと落ち込む傾向がある。そのへん、「杏之介」は、間違えたりできなかったことを認めるのを厭わない。それどころか、自分の失敗を自信満々に表明したりする。

一緒に仕事をする人からみて、一見すると「杏介」のほうが頼りになりそうなものだが、「杏介」が心配するほど、「杏之介」のテキトーさは、周囲に悪い影響を及ぼしていないように感じる。むしろ、ものごとの運びは、「杏介」ががんばるよりも、うまくいっているようにも思えるから不思議だ。

ということを書いて、精神分析家・ウィニコットの「good enough mothering」を思い出した。神経質に完璧を求める母親よりも、「ほどほどに良い母親」が、うまく子どもを成長させるという理論。子育てだけでなく、「ほどほどに良い」ことが、コトを巧く運ぶということはありそうだ。完璧な人が、チーム全体のポテンシャルを100%引き出すとは限らない。そう考えれば、もしかしたら「杏之介」のほうが、他の人にとってはより一緒に働きやすい人格なのかもしれない。

だが、どうして「杏介」と「杏之介」がこうも違うのかという点については、いまのところ謎だ。このまま使い分けていくのか、あるいは「100%杏之介」の人生にシフトして行くのかも不明である。とりあえずのところ、感触は悪くない。今後とも「坂倉杏之介」という人物を、どうぞよろしくお願いいたします。